グラーブ・シング(Gulab Singh, 1792年10月18日 - 1857年6月30日) は、北インド、ジャンムー・カシュミール藩王国の初代君主(在位:1846年 - 1856年 )。ジャンムー王国及びドーグラー朝の君主(在位:1822年 - 1856年)でもある。
生涯
1792年10月18日、グラーブ・シングはジャンムー王国(ドーグラー朝)の君主(このときはまだ王ではない)キショール・シングの息子として生まれた。
1808年、シク王国のランジート・シングにより、ジャンムーが征服された。だが、ドーグラー朝はシク王国の封臣として、ジャンムーの統治を認められた。
1821年、グラーブ・シングはキシュトワールを征服した。また、同年にはシク軍の遠征に参加し、デーラー・ガーズィー・ハーンを奪取した
1822年、父王キショール・シングが死亡し、グラーブ・シングが王位を継承した。
1834年、グラーブ・シングはラダック地方を征服した。これにより、多数の難民がラダックかチベットへと逃げた。
1841年から1842年にかけて、シク王国の武将ゾーラーワル・シングがチベットに侵攻し、チベットおよび中国の清朝との間に戦争が発生した(清・シク戦争)。このとき、グラーブ・シングは兵を供給し、ドーグラー兵がシク軍の主力となったため、この戦争はドーグラー戦争とも呼ばれる。
1845年から1846年にかけて、第一次シク戦争が発生したが、グラーブ・シングはこの戦争ではイギリス側に味方し、和平に尽力した。その結果、彼はジャンムーの独立の支配者としてイギリスから認められた。
さらに、同年3月にグラーブ・シングはアムリトサル条約を締結して、シク王国からイギリスに割譲されたカシュミールの領有も認められた。彼はイギリスにカシュミールの代償として750万ルピーを払い、その総主権を認め、ここにジャンムー・カシュミール藩王国が形成された。
1856年2月20日、グラーブ・シングは退位し、藩王位は息子のランビール・シングが継承した。
1857年6月30日、グラーブ・シングはインド大反乱のさなか、シュリーナガルで死亡した。
脚注
参考文献
- ロラン・デエ 著、今枝由郎 訳『チベット史』春秋社、2005年4月。ISBN 4-393-11803-0。
- 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。
- ビパン・チャンドラ 著、栗原利江 訳『近代インドの歴史』山川出版社、2001年。
関連項目
- ジャンムー・カシュミール藩王国
- 清・シク戦争
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