孝明帝(こうめいてい)は、北朝北魏の第8代皇帝。宣武帝の次男。

生涯

510年3月、洛陽の宣光殿の東北に生まれた。512年、皇太子に立てられた。515年1月、宣武帝が死去すると、北魏の皇帝として即位することとなった。幼年のため政治を執ることができず、はじめ高陽王元雍や任城王元澄が聴政した。8月、母の胡氏が皇太妃から皇太后となり、宣光殿で臨朝称制して、朝政の実権を握るようになった。

孝明帝の初年は、大乗の乱が起こって河北は動揺した。やがて侍中の元叉や中常侍の劉騰が宮中で台頭して、520年には孝明帝に政権を返すとの名目で胡太后を幽閉した。元叉と高陽王元雍の二頭体制が成立したが、実際は元叉が北魏の朝政を専断し、乱脈をきわめた。

523年、沃野鎮の破六韓抜陵が起兵して、鎮将を殺し、これを皮切りに六鎮の乱が勃発することとなった。胡琛・葛栄・杜洛周らが北魏に叛いて次々と起兵した。また徐州の元法僧や東豫州の元慶和らが叛いて南朝梁につくなど、東南方の国境も不安定になった。

525年4月、胡太后が再び朝政をみるようになった。元叉は兵権を剥奪され、翌年に処刑された。胡太后の執政のもと、北魏の朝政は弛緩し、六鎮の乱は拡大するばかりとなった。

528年2月、孝明帝は胡太后を牽制するため、爾朱栄と手を結ぼうとしたが、これが露見して毒殺された。19歳没。

死後

孝明帝の暗殺後、胡太后ははじめ、孝明帝の娘を男子と偽って帝位に即け、露見すると代わって孝明帝の従兄の臨洮王元宝暉の子の元釗を擁立したが、爾朱栄の反発を招き、河陰の変で殺害された。

それ以後、北魏では安定した皇位継承が失われて傍系皇族(長楽王元子攸・長広王元曄・広陵王元恭・安定王元朗・平陽王元脩)の擁立と廃位・殺害が次々に行われ、6年後の534年には東魏と西魏に分裂してそれぞれに傀儡の皇帝が立てられた。

宗室


后妃

  • 皇后胡氏(胡盛の娘で、霊太后の従姪)
  • 昭儀胡明相(胡楽世の娘で、霊太后の従姪)
  • 嬪高元儀(高顥の弟の高雅の長女)、嬪爾朱氏(爾朱栄の長女)、淑儀嬪雷氏、嬪王氏、充華嬪潘外憐、充華嬪盧令媛(盧淵の子の盧道約の長女で、北斉の武成皇后の母の姉)
  • 世婦崔氏(崔孝芬の娘)、世婦李氏(李韶の子の李瓚の娘)

子女

  • 女(母は潘充華、胡太后が男子と偽り帝位に即けるが1日で廃位)

脚注


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