本多 政信(ほんだ まさのぶ)は、江戸時代前期の大名。大和郡山藩支藩(部屋住み領)主。政信系本多家初代。
生涯
寛永11年(1634年)、播磨姫路藩主・本多政朝の三男として、姫路に生まれる。政朝は本多忠勝の長男である忠政の二男で、忠勝系本多家(本多平八郎家)の宗家の当主であった。
父の政朝は、寛永15年(1638年)11月20日に死去した。政朝の嫡男(政信の兄)である政長は幼少であったため、寛永16年(1639年)3月3日に政朝の従兄弟である本多政勝(姫路藩支藩主)が平八郎家宗家を継承することが認められた。この際幕命によって政長・政信兄弟は政勝の養子となり、政長が政勝の嗣子とされた。また、このときに平八郎家宗家は姫路から大和郡山藩に移され、政勝は15万石を治めることとなった。政勝はさきに政朝から姫路において部屋住み領として4万石を分知されていたが、この4万石の領知は政勝の実子・本多勝行に与えられて大和国に移された。
正保元年(1644年)11月28日、政信(11歳)は将軍・徳川家光に御目見した。
寛文11年(1650年)、本多勝行が16歳で死去。承応2年(1653年)、勝行の旧領である4万石は政長・政信兄弟に分けられた。政信は大和国6郡(葛上郡・忍海郡・平群郡・十市郡・葛下郡・高市郡)内で1万石を与えられ、郡山城内に住した(部屋住み)。明暦2年(1656年)9月11日、はじめて領地入りの暇を与えられる。寛文元年(1661年)12月28日、従五位下に叙せられ、監物を称した。
寛文2年(1662年)4月20日、29歳で死去した。嗣子がなかったため、政勝の子・本多忠英が末期養子となって跡を継いだ。
系譜
- 父:本多政朝
- 母:不詳
- 正室:無し
- 養子:本多忠英(本多政勝の子)
脚注
注釈
出典
外部リンク
- デジタル版 日本人名大辞典 Plus『本多政信』 - コトバンク




